「戦後昭和の国産香水」
開催:2017年2月22日(水) 19:30-21:00
備考:2017年2月現在のレジュメを、ほぼ無修正で分割掲載しています。
はじめに
トークセッションの前に、今回は国産香水の特集という事で、取り上げさせていただいたメーカーの方には大変お力添えをいただきまして、すべて廃番にもかかわらず、エクセルで発売年表を作成し送ってくださったメーカー、終売したボトルをご提供くださったメーカー、問合せに丁寧にお答えくださったメーカーなど、今回のキャバレーは国内メーカーの協力なしには成り立ちませんでした。この場を借りて、心より御礼申し上げます。
昭和は64年まで。1989年1月7日まで(天皇崩御)。
天皇崩御の際、駅で号外が配られました。タヌ21歳、大学4年生でした。その日は、在日アメリカ人(姉の職場の友人)とそのお兄さんを、姉が何かの用事で行けなくなったので、代わりに東京観光に連れて行く日でした。池袋に出て、ジョイス(姉の友人)とスティーブ(その兄)と合流した途端号外配布。2人とも日本語ができないので「なんだ、何があったんだ」と兄妹でザワザワ。当時英語があまり得意でなかった私には、姉のかわりにアメリカ人2人を観光に連れて行くこと自体一杯一杯なのに、天皇崩御とか元号が変わるとか、説明できるわけもなく、仕方なく号外を見せて「昭和、ジ・エーンド!」位いうのが精一杯でした。
戦後昭和の国産香水の特徴について
◯戦後昭和の国産香水を一言で言うと「寸止めの美学」
◯シプレ寄りのグリーンフローラルが香調の核になっている事が多い。特に資生堂はどの香りにも基本のグリーントーンがある。独特のもたり感、良い意味でキリキリこない、キレの弱さが特徴
◯この独特のもたり感が、高温多湿でも不思議と不快な匂いになりにくい。日本特有の気候にあわせ、汗で香りが混じり合わない工夫といえる
◯基本セットは香水とパウダー。気候に合わせて湯上りにパウダーのみ使う人も多かった。それに対し、気候的に冷涼な時期が長く、湿度の少ない欧米の基本セットは香水とボデイローション
◯安いメーカー高いメーカーではなく、同一メーカー内での価格帯が幅広かった 。
松竹梅鶴亀狸のシリーズがある。それぞれの価格帯で基本のセットが揃う、つまり消費者の予算、すなわちお財布(経済状態)に合わせてメーカーを変えずに選べる企業努力をしていた。
◯昭和末期のゲランやシャネルなどのパルファムと価格の比較
(1989年(平成元年)7月現在、資料:「香り:世界の香水ベスト・セレクション」日本テレビ刊)
【海外ブランド】
シャネル 5番 14ml 21,500円 19番 28ml 34,500円
ゲラン ミツコ 7.5ml 14,000円 60ml 60,000円
キャロン ナルシスノアール 15ml 18,000円
エルメス カレーシュ 30ml 34,000円
【国産香水】
資生堂 禅 6.2ml 4,900円 ホワイトローズナチュラル 30ml 22,000円
ポーラ ランコントレ 25ml 19,600円
メナード メルファム 30ml 33,980円 モンプティルゥ 17ml 9,700円
カネボウ ほとんどの香水が15ml、2400~9,000円
これから試香用ムエットをお配りいたします。ムエットの使い方についてですが、こちらfumikura様は飲食店ですので、貸切終了後にできるだけ残り香を残さないよう、ムエットを試香したらすぐムエット袋にしまい、また嗅ぐときは袋から出し、すぐにしまってください。よろしくご協力のほどお願いいたします。
パターン1:資生堂
資生堂
1872年創業、薬局からスタートした。化粧品事業に着手したのは創業より25年後の1897年、かつ化粧品会社として真のスタートは2代目社長、福原信三が就任し化粧品部が創立された1916年から。昨年開催された資生堂香水の一大回顧展、レ・パルファム・ジャポネも「100年の歩み」として1916年からの100年を指している。ワンストップで超高級品から普段使いのものまで揃い、若年層から熟年富裕層まで取り込む力のある唯一無二のラインナップを誇った、嫌がおうにも国産香水の頂点に位置する事を認めざるを得ないメーカー。1990年と2009年にロングセラー品の大規模な改廃を行い、特に2009年の改廃で戦後昭和のラインナップは一部を除き終焉した。それでも現行販売のラインナップは国内最多
<ザ・資生堂>その1:高度経済成長期
ザ・資生堂その1は高度経済成長期、1960年代、昭和30年代後半から40年代前半の香りです。
琴(1967)
禅(1964)、舞(1967)、そしてこの琴(1967)で和風三部作。
禅が発売された翌年の1965年、資生堂はアメリカに進出、現地法人「ハウス・オブ・ゼン」を立ち上げ、その勢いで欧米人が脊髄反射で日本をイメージする禅とか舞とか琴とか、そっち方面で打って出ました。中でも最大のヒット作となった禅は、資生堂インターナショナル製として、現在もアメリカで生産されています。琴は国内流通のみでした。いずれも重たい粉物の要素があるため、着物にもバッチリ。なぜならこの時代の20代、香水をつける年齢の女性はほぼ全員戦前生まれで、盛装の場は着物の場合が多いので、やたらとバタ臭い香りでは出番が少なかったのかもしれません。つまりスタイルに合わせた香水選びというわけです。
特にこの琴は、オーデコロンですらどっしりしたパウダリーシプレで、アメリカでは「ジャパニーズ・パウダリー・シプレの傑作」という声もある位評価が高く、かつては銀座の料亭などで、おしぼりの香りづけにも使われた人気の香りでした。
Story①
6年前の春、ちょうど震災の直前だったんですが、勤め先のそばにある郵便局に行ったら年の頃は60位の、ディバインが松坂慶子に擬態したかのような、あるいはミッツ・マングローブのお姉さんのようなごつい郵便局員の女性が応対してくれて、動くたびにふわりというよりはぶふぁっ、とどこか陰のある重い粉物系のシャージが溢れ、中々にお似合いで香りも良かったので、さぞ往年のクラシック香水を浴びるようにつけているのだろうと恐る恐る何をつけているか尋ねた所「良く聞かれるんだけど…資生堂の琴よ。化粧品店で取寄せているの。皆さんにお褒めいただくのよ。オーデコロンにファンシーパウダーを重ねづけしているのよ。お奨めするわ」との事。オーデコロンでもボディパウダーを重ねづけする事で、それだけのシャージが出せるのも驚きでしたが、この安価なコロンを取寄せてまで使い続け、しかも堂々と香らせている彼女の迫力に、感動を覚えずにはいられませんでした。ちなみにミッツさんはまだ同じ郵便局にいまして、先週また行ったら、香料のきっついハンドクリームを塗っていて、局内に結構充満していました。
プレサージュ(1977)
香水にある程度詳しくなると必ずたどり着く、元資生堂専属調香師で、現在は 国際香りと文化の会会長である中村祥二氏の著作、「調香師の手帖(ノオト)香りの世界をさぐる」をお読みになったことのある方いらっしゃいますか。
資生堂は、近年ではエドワード・フルシェ(シャンデュクール)、ナタリー・ローソン(第二世代ZEN:廃番)、ミシェル・アルメラック(第三世代ZEN:現行販売あり)など海外の著名な調香師に依頼して香水を作っていますが、昭和の時代は自社調香でも特定の調香師の名が挙がることはないものの、このプレサージュは、さきの「調香師のノオト」でも取り上げられているためか、本を読んでファンになった方がヴィンテージを今でも懸命に探している1本です。
ウッディ寄りフルーティシプレで、60年代のイグレックのような湯上り系フローラル・シプレから、70年代後期のマジノワールのようなスタイリッシュうっふん系の間、汽水域にいる、日本人向けにハードルを下げた肌なじみの良い、かつしっとりした色香のある香りですね。大人の女性を念頭において作られたのがわかります。きちんとアニマリックなアクセントもあります。
<ザ・資生堂>その2:石油危機からバブルのめざめ
ザ・資生堂その2:オイルショックからバブルのめざめとして、1980年代、昭和50年代から昭和の終わりまでをご紹介します。
むらさき(1980)
先ほどの禅と同じく資生堂インターナショナル配給の国際モデルとして大々的に売り出されたのがむらさきです。むらさきは、1990年のボトルリニューアルに合わせて処方も変更していて、国内外の熱心なファンが1990年のボトルリニューアルの際「香調が変わった」と香調自体もリニューアルしてしまった、と結構な物議となりました。今お試しいただいているのはオリジナル版です。この仏具を彷彿するような、濃い紫一色のボトルに、縦書きの毛筆体で「むらさき」ですよ。たまらなくジャポネスクですね。
個性的なビターグリーンの効いたシプレフローラルで、ガルバナムの湿っぽいグリーンで枯れた和を演出。昭和の資生堂らしい華奢な女性にしか出せない、ちょっと不可解な、計数しがたい色香がベースにきちんとあり、生まれつき胸板の厚い海外のファンには、この願っても手の届かない胸板の薄さがことさら美しく感じられたのでしょう。猛烈なガルバナムとヘディオンの一撃で始まり、その後は徐々に青みの強いバラ、菊、ユリ、アイリスでパウダリーになっていきます。トップのガルバナムとアイリスがひたすら尾を引いている感じで、一度使ったことのある人なら一発で「あ、むらさき」と判る香調ですね。ただこれが強烈バリバリ和風かというとそうでもないし、洋風では決してなくて、過去にも未来にも、和にも洋にも辿り着けない境界線にいるむらさきは、いい香りなんですがある意味難易度が高いかもしれません。今回、せっかくコレクションしていたオリジナルのパヒュームを、作業中倒して全部中身をこぼしてしまったんですが、それはもうあちこちむらさきの香りで一杯になって、えええ~香りでした。ちなみに現行版むらさきは、処方変更でかなり造作が粗くなってしまい、ちょっと実用には向かない、安っぽい香りになってしまって残念です。
花椿(1987)
花椿は、資生堂創業115年、顧客サービスの一環として創立した花椿会50周年記念の感謝品として会員に配布された非売品で、翌年、この花椿をべースに桜マシマシの花桜、その次の年には花椿に菫マシマシの花菫が、3部作として配布されました。花椿は資生堂の商標ですね。これぞ資生堂グリーンフローラルの結晶、なんとこれはタヌ最初の資生堂香水でして、当時バイト先ですごくいい香りの先輩がいて、何をつけているか聞いたら花椿で、これ売ってないんだ、と小分けしてくれて、大事に大事に使いきりました。その後3部作を手に入れる機会があり、懐かしさで一杯になりました。湯上りに極上のクリームでスキンケアをした余韻を昇華したような、ふんわりと体温と共に上気する、ボトルイメージそのもののやさしい香りです。資生堂が長年の研究で抽出に成功した、やぶ椿の香りを再現しているとのことですが、まさしくこれが「資生堂の香り」です。もともと花椿という香水は、1917年に発売されており、静岡県掛川市の資生堂企業資料館では、1917年に発売されたオリジナルの花椿を、ボトルも発売当時のデザインを忠実に再現して発売していますが、個人的にはこの花椿会感謝品の花椿を、一般品として是非とも再発してほしいです。
ちなみに、戦後昭和に発売されて、ドラッグストアなどで1000円台から2000円台で購入できるリーズナブルな価格帯のクラシック香水は5点あり、発売順にメモワール、禅、琴、モア、ここまでが1960年代、つまり昭和30年代から40年代、そして1980年、昭和55年のむらさきです。いずれもよい意味で脇役に徹してくれる、香り自身がつける人より前に出ることの決してない香調ですが、かといって香りが弱いわけでも、薄いわけでもありません。共通してグリーンで立ち上がり、パウダリーで終わる、資生堂ここにありという香調は、日本人の嗜好と高温多湿の気候、そして昭和という時代によしとされる女性のあり方そのものだったのかもしれません。
Story②
今年は東日本大震災が発生して6年目、つまり7回忌の年にあたります。震災直後は都内も交通機関が計画停電の影響で、大幅に交通規制が行われ、勤務先でも時差通勤をしておりました。通常の私鉄や地下鉄通勤路では帰宅できなかったので、毎日1時間早く退社し、東西線で中野まで出て、バスで江古田まで行き、そこから15分歩いて帰ったのですが、当時中野にはサンモールとブロードウェイの中に2件、古い化粧品店があって、震災と同時にかなり情緒不安定になったんですよね、何故か昭和の国産香水のデッドストックを買いあさるという奇行に走りまして、当時は自分でもよくわからなかったんですが、今思うに、子供の頃、街には普通に国産香水の香りが流れていて、本能的にそこが安心できる香りだったんでしょうね。特に母を思い出して、本当に落ち着けたのを覚えています。うちの親、資生堂なんか一切使ってなかったんですけどね、母はポーラでしたから。それで、そこで集めた主に資生堂の製品で、後日1本LPTで特集を組めたくらいでした。その時、ブロードウェイの地下にある化粧品店に立寄った際、資生堂の香水について尋ねると廃盤になったパヒュームなどを色々出してくれながら「こういうものを売れないからといって廃番にしてしまうなんて、文化が死んでしまう事なのよ。売れる、売れないじゃなくて続けるって事が文化なのに、資生堂も功利に走っていけないわ。特に、スーリールなんか絶対なくしちゃだめだったのよ」と、年の頃は60前後と思しき、おすぎ似のおじさんが熱く語ってくれたのを覚えています。
次回、東名阪訪問販売系をご紹介します。